掛川100景 【No.36】 無間の鐘
願い・祈り・欲望…人間の心模様を映し出す不思議な鐘
掛川市と島田市の間にある粟ヶ岳(標高532メートル)は、古来より信仰の山として知られており、山頂には天平8年(736年)に創建されたといわれる『阿波々神社(あわわじんじゃ)』があります。
この粟ヶ岳には、遠州七不思議の1つとしても数えられている『無間の鐘(むげんのかね)』の伝説が残っています。
無間の鐘をどうミルか?👀
👀01. 人々の幸せを願って作られた鐘が無間地獄を生み出した?
無間の鐘の伝説で広く知られているのは、次のような話です。
その他にも、小鮒川に住んでいた欲深い長者が、鐘を鳴らすときに足をすべらせて地獄の底へ落ち、地獄での食事が蛭(ひる)になって食べることができず、大変な苦しみの中あわれな最期をとげたという話(「史跡と伝説」掛川市商工観光課)より)も残っています。
人々の幸せを願って作ったものが、逆に人を不幸にするというお話は、なんとも言えないせつなさがあります。また欲深い人が地獄に落ちるという因果応報的な話も伝えられていて、伝説からいろいろな感情が湧き上がります。
👀02. 時代背景や価値観の影響を受け変わる伝説の捉え方
実はこの無間の鐘伝説には、時代が違う別の話が存在しています。
1つ目は、👀01.で紹介した聖武天皇の時代のもの。このような形で無間の鐘の伝説が語られた当時は、地震や内乱、疫病の流行により荒れ果てた国を仏教の力によって安定させようとする『鎮護国家(ちんごこっか)政策』がおこなわれていました。
2つ目は、江戸時代後期に書かれた書物に残されているもの。
寛政9年(1797年)に発行された『東海道名所図会(秋里籬島(あきさと りとう)著)』では、明応年間(1492年–1501年)に、寺の住職が「この鐘が人々に罪を与えている」として、古井戸の底に投げ捨てたという無間の鐘に関する伝承があることに触れられています。
ただし著者の秋里はそれらの伝承自体を否定的に解釈しています。そもそも鐘が存在していたのではなく、細く険しい山道で谷へ落ちる事故を無間地獄とたとえ、助けを求めるために鳴らしていた鐘があったのではと。
この解釈には、当時、飢饉や財政難などの課題を解決しようと松平定信がおこなった『寛政の改革』の影響があるのかもしれません。この改革では朱子学(中国の儒教の学問体系)以外の学問が禁止され、人々の中で不可思議な現象の実在を否定するという態度が人々に芽生え広がっていました。
あるときには仏教の影響、あるときは学問の影響を受けながら変化した無間の鐘伝説。それぞれの解釈が生まれた時代背景や当時の価値観を少し学んだうえで、伝説について考えてみても面白そうです。
👀03. 磐座に地獄穴?伝説と神仏習合の歴史
粟ヶ岳の山頂付近には、巨石に囲まれた『磐座(いわくら)』という、古くより神様が降臨されるとして大切にされてきた神聖な場があります。
この磐座には、『地獄穴』と呼ばれる恐ろしい名前のついた場所があります。
地獄というのは仏教的な概念です。神道的に重要な場である磐座に、地獄の名を冠する穴があることに疑問を持つ方がいるかもしれません。
実はこれは、無間の鐘伝説が神仏習合時代に生まれたことによるものです。神仏習合とは、日本にもともとあった神道と中国から伝わった仏教を融合・調和させる思想で、奈良時代から始まり、平安時代後期に大きく発展しました。
実際に粟ヶ岳には、阿波々神社と無間山観音寺が共存している時代がありました。
このように、民話や伝説は、その時代の様々な要素が複雑に絡み合い、変化しながら伝わっていきます。もし今『無間の鐘』伝説を解釈するとすると、どのような時代背景や価値観の影響を受けるでしょうか?