掛川100景 【No.1】 掛川城
日本初の『本格木造天守閣』として復元された『東海の名城』
文明6(1474)年今川義忠が隣国遠江への侵攻を開始、その一環として今川氏の重臣、朝比奈泰煕(あさひな やすひろ)により築かれたのが掛川城(現:掛川古城)です。
その後、朝比奈泰能(二代)の代になると、今川氏の勢力拡大に伴う城域拡張のために、場所を移して『掛川城』が築城されました。
掛川城の天守閣は、1596年に築造されましたが、安政の大地震(1854年)で崩壊しました。現在の掛川城は、平成6(1994)年に、日本初の『本格木造天守閣』として復元されたものです。
掛川城をどうミルか? 👀
👀01. こんなところにも城を守る工夫があった
豊臣秀吉の天下統一後、天正18(1590)年に徳川家康が関東に移封されるのに合わせて、豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が掛川城に入ります。
一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、天守を築くなど近世城郭としての体裁を整えました。
小高い丘の上に建てられた掛川城は、その場所の理も利用しながら、石落としや鉄砲や弓矢で攻撃するための狭間(さま)など、防衛のためのさまざまな工夫が盛り込まれました。
どのような工夫があるか、掛川城の天守閣へ向かいながら探してみてください。
👀02. 城下町を整備した一豊は、どんなまちにしたかったのだろうか?
掛川城の前には東海道が通っており、江戸の日本橋から数えて26番目の宿場にあたる掛川宿もありました。
また、信濃の塩を運ぶ『塩街道』も掛川を通っていました。掛川城は、東海道、塩街道と掛川の街を守る役割も果たしていました。
掛川城に初の天守閣を築き、城下町の整備や大井川の治水などにも尽力した山内一豊はどんな想いで、城下町をつくっていったのでしょうか。
天守閣に登り、城下に見えるまちを見て、想像してみてください。
👀03. 城内の井戸から立ち昇る霧が城を守った!?
時は、永禄11(1568)年。駿河の今川氏真は、西から徳川家康、東から武田信玄に攻められた際、重臣の朝比奈泰朝がいる掛川城へ逃げ込みました。
家康が攻撃を仕掛けた際、井戸から霧が立ちこめ、掛川城をすっぽりと覆い隠し、徳川軍は攻撃できなくなったという言い伝えがあります。
以来、掛川城は『雲霧城』とも呼ばれるようになりました。
この井戸は天守閣前に現存しています。
👀04. コンクリートの城が多い中、市民寄付により木造で復元された意味は?
掛川城は、日本全国でも数少ない、地域の寄付によって木造で復元された城郭です。
掛川には、新幹線掛川駅の開業に市民募金が集まったり、東名掛川インターチェンジが民間からの出資金を得て開通したりするなど、市民や企業の未来のまちづくりに関する想いや団結力が根付いています。
2024年に天守閣開門30周を迎えた掛川城を訪れることで、地域が築き守ってきた歴史的な遺産の重みや、未来のまちづくりにおける『地域の力』の重要性を感じてみてください。
◼️ 抜け道&寄り道100景~掛川城
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