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掛川100景 【No.47】 掛川宿

掛川城の城下町として繁栄した東海道の宿場

『掛川宿(かけがわしゅく)』は東海道五十三次の26番目の宿場です。東海道の宿場であるとともに『塩の道』と呼ばれる秋葉街道と東海道が交差する要所でもありました。

掛川宿は、室町時代に今川氏の家臣朝比奈泰熙(あさひなやすひろ)が掛川古城を築いた頃から宿場としての歴史がはじまり、山内一豊が掛川城を築城し10年以上をかけて改修と整備をおこなうのにあわせて城下町として栄えていきました。

掛川宿のあったエリアには、現在も当時の名残を垣間見ることができる場所が残っています。

城主は掛川宿のにぎわいをどのように感じて眺めていたのでしょうか

掛川宿をどうミルか?👀

👀01. 江戸時代3千人もの人が暮らし働いていた宿場町

東海道は、徳川家康が整備した五街道の一つで、江戸日本橋から京都三条大橋までの間に53ヶ所の宿場を設けました。

東海道五十三次の26番目にあたる『掛川宿』も、掛川城のすぐ南を通る東海道の宿場として、役割を持つ施設や店が集まり町を形成していました。

宿場町は街道に沿って長く延びるのが特徴で,近世の大きな宿では長さ1里以上に及ぶものがある。公用人馬の継立てや休泊などの宿業務を運営する問屋場や,参勤交代の大名などが宿泊する本陣,脇本陣がほぼ中央部に位置し,その前後に一般旅行者の利用する旅籠屋(はたごや),茶屋,煮売屋(にうりや),そして人足問屋,馬借問屋などが並び,さらに外側に諸商人,諸職人が配され,いくつかの町に分かれている場合もあった。

引用:コトバンク

天保14年(1843年)の記録によると、当時掛川宿には本陣が2軒、旅籠屋が30軒など、計960軒ほどの家があり、3443人が住んでいたそうです。

通行する人、宿泊する人も含め、町がどのような雰囲気に包まれていたか想像してみてください。

本陣あたりは現在商店街になっています

👀02. 東海道と塩の道との交点

掛川宿には東海道の他に、静岡県牧之原市にある相良(さがら)から長野県へ通じる『秋葉街道』という主要な道路が通っていました。

秋葉街道は、塩をはじめとする遠州の海産物を内陸部に運ぶ道として利用されていたため、『塩の道』とも呼ばれていました。

東西に伸びる東海道と、南北に伸びる秋葉街道とが交差している掛川宿は、たくさんの人と物の行き交うにぎやかな宿場町だったことでしょう。

『塩問屋』が並んでいた場所は『塩町』という名前が残っています

👀03. 宿場町としての名残が今も数多く残る

掛川宿のあったエリアには、かつての宿場町の雰囲気を感じることができる場所が残っています。

例えば、『七曲り』という掛川城の東側の場所は、掛川宿の入口にあたり、途中に検問を受ける番所がありました。『七曲り』は、敵を用意に城内へ入らせないための構造で、今でも道が曲がりくねっています。

大名が江戸と国元を行き来したときに泊まる宿泊所は『本陣』と呼ばれ、現在かつて本陣があったあたりは東海道を挟んで商店街になっており、人の往来が今なお感じられます。

また、その頃につけられた町名が現在でも住所、行政区分、自治区名などとして残っているので、掛川宿のあったエリアを散策しながら現在も残る地名も探してみるのも面白いでしょう。

七曲りの道は敵が城に攻めてきたときどれくらいの効果がありそうでしょうか
本陣のあった場所にある屋台村『本陣通り』で江戸時代の大名気分になれるかも

掛川宿跡
〒436-0093 静岡県掛川市連雀1−5
※掛川宿跡の場所に史跡などはありません
ホームーページ:
掛川市観光情報|掛川宿

アクセス
[クルマの場合]東名高速道路掛川I.Cより約10分
[公共交通機関の場合]JR掛川駅より徒歩7分