掛川100景 【No.12】 吉岡彌生
今世につながる女性の生き方を実践し、女性の社会進出を導いた
吉岡彌生(よしおか やよい)は、女性が自由に生き方を選ぶことが今よりも困難だった時代に、女性の社会的地位向上に大きな役割を果たした人物です。
彌生は、明治4年(1871年)に掛川市(旧 遠江国城東郡土方村)に生まれました。当時は女性が学問を身につける必要はないという時代。しかし彌生は勉強熱心で、小学校に通い、成績も優秀だったそうです。
その後医師を目指した彌生は、すでに進学した兄の協力を得て、進学に反対していた父親を説得し、日本医科大学(旧 済生学舎)へ入学。明治25年(1892)年に「内務省医術開業試験」に合格し、日本で27人目の女医となりました。
さらに彌生は医師として働くだけでなく、医学教育の道を生み出し、女性の自立や生活の改善を訴え、幅広く活動していきました。
吉岡彌生の生きざまをどうミルか?👀
👀01. 結婚してもやめなかった医師という仕事へ強い想い
医師となった彌生は父親の元へ戻り、父が営む鷲山医院の分院として診察をおこなっていました。
しかし数年後に再び上京します。日中は医師として働きながら、夜は私塾・東京至誠学院に通学しました。さらなる知識向上を求めてドイツへの留学を目指したためです。
その後、東京至誠学院の院長だった吉岡荒太氏と結婚をした彌生ですが、結婚後も子どもが生まれたあとも、あまり生活スタイルを変えていません。
当時の女性は家庭を守るため、料理、機織り、畑仕事などをおこなうのが主流でした。そんな時代に、医師という仕事を続けた彌生の想いはどんなものだったのでしょうか。
👀02. 女性の社会的地位の向上を目指し、医師を目指す道を作る
明治33年(1900年)母校である日本医科大学(旧 済生学舎)が女性の入学を認めなくなります。そのことを知った彌生は、すぐに日本初の女医養成機関として『東京女医学校』を設立しました。
『東京女医学校』は、現在の東京女子医科大学の前身です。当時彌生は29歳でした。
彌生には、女性だけの学校を作ることへの並々ならぬ動機がありました。それは女性の社会的地位を向上したいというものです。
👀03. 女性のために「まこと」の心を最期まで貫き生きた
女性のための医学教育としての道を生み出した弥生は、さらに女性の社会的地位の向上を目指し、さまざまな活動をしていきます。
例えば、昭和3年(1928年)に開催された、ホノルルで開かれた第1回汎(はん)太平洋婦人会議に日本女医会の代表として出席したり、昭和12年(1937年)には、女性初の内閣教育審議会の委員に任命されたり、医師と学校の運営の枠に収まらず幅広く活動しました。
戦争や震災の中でもあきらめることなく、最後まで貫いたその力強い生き方は、現代のわたしたちへ多くの希望とメッセージを残しています。
最後に吉岡彌生が好きだった言葉をお伝えします。
生涯を真実の心を持って生きた彌生にぴったりな言葉ではないでしょうか。