掛川100景 【No.9】 垂木祇園祭
村を襲った大獅子が神様に!? 伝説息づく垂木の祇園祭
掛川市の垂木地区では、毎年7月の第2日曜日をはさむ8日間『垂木(たるき)の祇園祭』が開催されます。
この祇園祭は掛川市の無形民俗文化財として認定されており、雨櫻神社(あめざくらじんじゃ)と六所神社(ろくしょじんじゃ)の合同祭礼となっています。
祇園祭の起源は鎌倉時代末期。雨櫻神社の社殿が焼失してしまった際に、2km南にある六所神社で御祭神を一緒に祀ったことから、お礼のための神幸祭が始まったそうです。
この祭りの特徴は、馬に乗って走りながら矢を射る『流鏑馬(やぶさめ)』がおこなわれるということ。実は垂木地区に伝わる大獅子の伝説が、この流鏑馬に関係しています。
垂木祇園祭をどうミルか👀?
👀01.大獅子伝説~なぜ流鏑馬がおこなわれるのか
垂木地区には次のような大獅子に関する伝説が伝わっています。
この大獅子退治の話が元となり、小麦が収穫できる初夏『垂木の祇園祭』がおこなわれるようになったと伝えられています。
祇園祭では、雨櫻神社の御神輿が六所神社に同じく祀られ、8日7晩の間、郷内の五穀豊穣と無病息災を祈る日供祭(にっくさい)がおこなわれます。
御神輿がお戻りになる前日には、大獅子が麦俵を食い破る様子を再現した『御獅楽』と呼ばれる獅子舞が、お戻り当日には流鏑馬がおこなわれています。
今、流鏑馬をおこなっているのは大獅子を退治した7人の騎馬武者たちの末裔の方だそうです。伝説がもととなった伝統文化が、今もなお脈々と受け継がれているのです。
👀02.災厄から神様へと変わった大獅子
掛川には、掛川大祭で登場する『かんからまち』や『仁藤の大獅子』など、獅子舞の伝統文化が根付いています。
獅子舞の獅子は本来神様であり、一方の垂木の伝説に登場する大獅子は、麦俵を食い荒らすという災厄を人々にもたらした対象的な存在です。
しかし『垂木の祇園祭 神様になった獅子』著者の中村悟氏によると、垂木の村人たちは「獅子はあんなに恐ろしく強かったのだから、これからはその力で村を守ってもらおう」と考えたとのこと。
こうして村では神主さんに頼み、退治した獅子を洞戸権現(とうどごんげん)という神様にして、祠を建てて祀ったそうです。
👀03.唐土神社で大獅子の息吹を感じる
大獅子・洞戸権現は、現在、唐土神社(とうどじんじゃ)に祀られています。
この唐土神社は、雨櫻神社の脇にある山道を進んだ山の奥に祠があります。
気軽に訪れることが難しい、険しい山道を進んだ先にある祠には、垂木の祇園祭(流鏑馬)に繋がる洞戸権現の伝説について記された由緒板が置かれています。
『垂木の祇園祭 神様になった獅子』(中村悟著)によると、洞戸とは洞穴の入り口という意味で、大獅子が棲息し、また、退治された場所のことを指しているのではないかとのこと。
つまり、山奥にひっそりと鎮座する唐土神社があるこの場所が『獅子平』と呼ばれる大獅子が住んでいた場所なのです。
当時、イノシシやシカなどの動物がこの辺りにもいたそうですが、それらを大獅子と見間違えるとは思えません。では獅子とはいったい何だったのでしょうか?
そして、厄災だった大獅子を神様と捉え直した当時の垂木の人たちは、どんな考えや思いを持って神様として祀ったのでしょうか?
困難な状況に対して発想の転換をおこなった垂木村の人々の考え方は、不確かな時代を生きる私たちにとっても学ぶところがあるのではないでしょうか。
◼️ 抜け道&寄り道100景~垂木祇園祭
『獅子平』という名前は、享和3年(1803年)に記された『遠江古蹟圖繪』にも登場している
天竺(インド、もしくは遠いところ)から獅子が飛んで来た場所を『獅子平』と呼ぶのではないかという言い伝えがある
•垂木には、男獅子と女獅子が、天からとびおりて『獅子平』に住み、その後『獅子石』という石になったという民話も残っている