掛川100景 【No.8】 夜泣き石
歴史の中で移り変わる不思議な丸石『夜泣き石』
掛川市にはかつて東海道の2つの宿場があり、その間に『小夜の中山(さよのなかやま)』という峠がありました。
小夜の中山には『夜泣き石』と呼ばれる不思議な丸石があり、こんな伝説が語り継がれています。
夜泣き石の伝説は、享保年間(1716年-1736年)頃から噂が広まり始めたとされ、文化2年(1805年)に曲亭馬琴の『石言遺響(せきげんいきょう)』で詳しく紹介されたことで有名になりました。
さらにその後、歌川広重の『東海道五十三次』における『日坂』の中で夜泣き石が描かれ、世間から注目されるきっかけとなりました。
夜泣き石をどうミルか?👀
👀01. 泣いていたのは松だった?!『夜泣き松』説
夜泣き石には「石ではなく松が泣いていた」という説があります。
江戸時代に掛川宿で葛布商人として活躍していた兵藤庄右衛門(ひょうどう しょうえもん)。彼は書や絵画をたしなむ文化人でもあり、藤 長庚(とう ちょうこう)というペンネームで取材活動も行なっていました。
そんな庄右衛門は、享和3年(1803年)に遠江国のさまざまな古跡を巡り『遠江古跡圖繪(とうとうみこせきずえ)』をまとめています。
その中で彼は、夜泣き石について「近来この処にて種々奇談を板行とし、旅人に売る。残らず妄説なり」と、石が泣く説を否定。
「観音様が赤ん坊を松の節穴の中へ入れたことから泣き声が聞こえるようになった」と考え、「夜泣き石ではなく『夜啼の松(よなきのまつ)』では」と考察しています。
夜泣き石に関してはこの他にも多くの説が生まれており、人々が高い関心をもってこの石を見ていたことがわかります。
👀02. まるで邪魔者扱い?!川柳でも読まれた夜泣き石
伝説として語り継がれる夜泣き石ですが、残念ながら邪魔者扱いされていたこともあるようです。
夜泣き石のある小夜の中山は、当時から東海道の中でも難所として知られていました。
ただでさえ険しい山道、暗くなればなおのこと危険です。
そんな背景もあり、道ゆく人からはこのような古川柳が詠まれています。
ここまで言われて少しかわいそうな気もしますが、川柳の題材になるほど夜泣き石が人々の生活の中に溶け込んでいたともいえるでしょう。
👀03. 時代とともに場所を移す夜泣き石
夜泣き石は現在小夜の中山トンネル脇にありますが、その場所に落ち着くまでに何度か場所を移しています。
もともとあった場所は、歌川広重の『東海道五十三次』に描かれているように日坂宿近くの山道の中央です。
時代が変わって明治元年(1868年)、明治天皇の行幸(東幸)に際して「道路中央に石があっては恐れ多い」として別の場所へ移されました。
その後、東京の博覧会に出品する機会があり、そこから帰ってきて今の場所に至ります。
(ちなみに博覧会やその帰途のエピソードなどを調べてみると、夜泣き石が泣きたくなる気持ちが少しわかるかもしれません)
時代とともに場所を移しながら、ようやく今の場所に落ち着いた夜泣き石。
次に動くことがあるとしたらいつなのか。
夜泣き石を眺めながら考えてみてはいかがでしょうか。
◾️抜け道&寄り道100景〜夜泣き石
・夜泣き石の物語の結末には2つのパターンがある
・小夜の中山には夜泣き石の他にも伝説がある?
・夜泣き石に出てくる子育飴は『小泉屋』と『これっしか処』で入手できる
・東京の博覧会に夜泣き石が出展。観客から不評だったのはなぜ?