掛川100景 【No.5】 山内一豊
掛川城下町の礎(いしずえ)をつくった武将・山内一豊
山内一豊(やまうち かずとよ)は戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉によって天下統一がなされ、それまで遠江を領有していた徳川家康は関東へと追いやられます。さらに秀吉は家康を牽制するため、東海道や中山道をはじめとする街道筋の城郭に配下の武将を配備しました。
そうして掛川城へやってきたのが山内一豊です。
今回は掛川で行なった城下町づくりを中心に山内一豊について紹介していきます。
山内一豊をどうミルか?👀
👀01.一豊によって大きく変わった掛川の城下町
山内一豊が行なった掛川のまちづくりの代表が『掛川城』です。
一豊は最新技術を導入して石垣を築き、天守に代表される高層の茅葺き建物を立て、近世掛川城の礎を築いたと言われています。
それまでは武士以外の農民や商人などの町民は城内に入れない形だったのですが、惣構え(町民も城内に囲い込む形態の城郭)へと変化。掛川城下町全体が大変貌を遂げる大きなきっかけを作った点が一豊の大きな功績です。
このような大規模な城郭改修が許されたのは、それだけ秀吉が掛川という地を重要な防衛拠点と見なしていた証だと言えるでしょう。古地図や資料などを参考に、一豊が行なった11年間の大改修の前後を比較すると見えてくるものがありそうです。
一豊による掛川城の整備は、掛川市のホームページに詳しくまとめられているので興味のある方はご覧ください。
👀02.一豊が大井川の流れを変えた!?
大井川は『箱根馬子唄(はこねまごうた)』の中で「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠われるほど、江戸時代の東海道中においては屈指の難所でした。
度重なる洪水を防ぐため、天正18年(1590年)に『天正の瀬替え(せがえ)』という大規模な治水工事が行われ、これにかかわった1人が一豊です。
大井川の流れをせき止めるために堤防がつくられたのですが、当時この土地を治めていた一豊にちなんで『一豊堤』と呼ばれ、いまも地元の人たちに大切にされています。
天正の瀬替えは、山内一豊の先見性や土木技術力を示した1つの事業だったといえるでしょう。
👀03.掛川城と高知城が似ているのはどうして?
一豊は秀吉の死後、石田三成と徳川家康の対立が生じた際に家康側に近づきます。
関ヶ原の戦いの直前に開かれた軍事会議『小山評定(おやまひょうじょう)』では、「掛川城を明け渡し、城内の兵糧を献上する」と発言したことによって家康を喜ばせたとのこと。
結果的に関ヶ原の戦いで家康軍が勝利し、一豊は戦いの功績から20万2,600石の土佐高知藩主となりました。
こうして土佐へと移った一豊は高知城を築城したのですが、その造りは掛川城を模して建てられたと言われています。
掛川城はその後に起こった宝永地震によって天守が大破し、再建を試みたものの断念。平成6年(1994年)になり、掛川城が復元されました。
ちなみに再建にあたって参考にしたのが高知城とのことで、遠く離れた掛川と高知ですが、今もお城を通してつながっている感じがおもしろいですね。
👀04.掛川で一豊のゆかりを巡ろう!
掛川市内を散策すると、一豊にちなんだモニュメントをいくつか見ることができます。
まずは掛川駅から掛川城へと向かう道中、中町交差点付近にある清水銀行掛川支店の壁面。ここには、一豊と妻・千代の浮き彫り彫刻が飾られています。
有名な逸話として「一豊が名馬を欲した際に、妻である千代が嫁入りの持参金で購入の手助けをした」という話があります。この逸話にちなんでか、浮き彫り彫刻では一豊が乗る馬の手綱を千代が握っています。
また、掛川城天守閣には山内一豊の騎馬像や、甲冑の複製が展示されています。
掛川城下に広がる掛川の風景を眺めながら、一豊が築き上げた城下町に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
◼️ 抜け道&寄り道100景~山内一豊
高知県には掛川ゆかりの神社がある
山内一豊にゆかりのある掛川市内の神社仏閣