掛川100景 【No.26】 松ヶ岡
掛川の礎を築いた山﨑家の旧宅と屋敷地
『松ヶ岡(まつがおか)』は江戸時代末期、安政3年(1856年)に建築された、山﨑家の旧宅と屋敷地です。
当時、屋敷とそのまわりにはたくさんの松が植えられ、遠くから望むとまるで岡のように見えることから『松ヶ岡』と呼ばれていました。
松ヶ岡は江戸後期の良質な屋敷構えと、近代の格式高い空間をあわせ持つ貴重な文化財として知られていますが、松ヶ岡の価値はそれだけにとどまりません。
この場所に関わってきた人たちの取り組みと功績を知ることにより、松ヶ岡の価値をより深く理解することができます。
松ヶ岡をどうミルか?👀
👀01.歴史的・文化的価値の高い建築物と庭園
松ヶ岡は江戸時代後期から明治時代にかけての豪商の邸宅として文化的価値が高く、明治天皇が北陸東海両道を御巡行の際にお泊まりになる『行在所(あんざいしょ)』として使用された歴史的な場所でもあります。
建物には高級木材と優れた建築技術が惜しみなく使われており、明治期に増築された奥座敷棟からは近代和風建築の魅力が感じられます。
また1600坪を超える広大な敷地の半分以上を占める庭園は、堀や多数の灯ろう、鞍馬石の沓脱石(くつぬぎいし)などが配置され、四季折々の魅力が感じられます。
👀02.山﨑家の千三郎(せんざぶろう)と覚次郎(かくじろう)博士の功績
山﨑家は掛川藩の御用達(ごようたし:幕府や諸藩に出入りして、品物を納入した特別な商人)で県下屈指の富豪として知られており、明治維新によって時代が大きく変化する中で、掛川のために多大な貢献をしました。
山﨑家8代目の千三郎は、商人として築いてきた私財を投げ打ち、国外に茶を輸出するための『茶再生工場の建設』のほか、『用水整備』や『東海道鉄道の誘致』などをおこないました。
千三郎はこのように、掛川のインフラの整備に尽力し、初代掛川町長に就任しています。
一方で覚次郎(かくじろう)博士は千三郎の甥(おい)にあたり、掛川にとどまらず日本の経済学発展に尽力した重要人物です。
日本で金融経済がはじまったばかりの頃、叔父である千三郎が茶の輸出のために必要だった掛川銀行の設立にかかわり、初代頭取となりました。
当時としては莫大な資本金である30万円を集め、国立銀行をはるかにしのぐ規模の銀行を設立しています。
松ヶ岡はこうした山﨑家の人々の貢献や功績によって、今に伝えられています。
👀03.『教養』という言葉が日本で初めて使われたまち掛川
掛川は『教養』という言葉が日本で初めて使われたまちとして知られているのをご存知でしょうか。
『教養』という言葉は、掛川藩の藩校『教養館(きょうようかん)』で用いられました。この藩校の特徴は、武士の子弟だけでなく、商人や農民の子どもたちにも開かれていたことで、当時としては画期的でした。
そしてこの『教養館』の設立に深く関わったのが山﨑家だったのです。
『教養』という概念は、単なる知識の習得を超えて、人生を豊かにするための学びを意味しています。山﨑家は、広く市民の教養を高めることを願い、この理念を実践しました。
『教養』の精神は後の掛川市の教育方針にも影響を与え、『生涯教育』という概念の先駆けにもなっています。
👀04.『以善堂』の精神が今なお松ヶ岡を支え続けている
歴史的・文化的に価値が高い松ヶ岡ですが、平成24年(2012年)12月に所有者が松ヶ岡を処分するという意向を示します。
しかし市民から取り壊しを惜しむ声が上がり、平成25年(2013年)4月に市民による『松ヶ岡保存活用検討委員会』が立ち上がりました。
最終的には掛川市が松ヶ岡の購入を決定。その後『松ヶ岡プロジェクト』が立ち上げられ、建物の修復や活用計画の策定が進められています。
このプロジェクトでは、松ヶ岡を単なる歴史的建造物ではなく、市民が集い、学び、交流する生きた文化の場として再生することを目指しています。
松ヶ岡には『以善堂』という言葉が掲げられています。
これは「善い行いをする人が集まり、善い行いをする人を育てる所」を意味する、山﨑家が大切にした理念です。
松ヶ岡を守るために『松ヶ岡プロジェクト』や市民ボランティア団体『松ヶ岡を愛する会』が立ち上がったことを考えると、この理念は今なお掛川市民にしっかりと受け継がれているように思えます。
◼️ 抜け道&寄り道100景~松ヶ岡
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