掛川100景 【No.15】 掛川祭
多様な文化と各町の情熱が出会う掛川祭
『掛川祭(かけがわまつり)』は、毎年10月上旬に掛川駅北側の市街地を中心に行われる祭りです。また、3年に一度、規模を大きくした『掛川大祭(かけがわおおまつり)』が開催されます。
掛川祭では、町ごとに作られた屋台の曳(ひ)き回しや余興などが披露されるほか、大祭では三大余興と呼ばれる『瓦町(かわらまち)のかんからまち』、『西町の奴道中』、『仁藤町(にとうちょう)の大獅子』を見ることができます。
日中は城下町ならではの風情溢れる雰囲気、夜は熱気に満ちた雰囲気を感じることができる掛川祭は、さまざまな『出会い』から生まれています。
掛川祭をどうミルか?👀
👀01. 七社の神社の『出会い』から生まれる祭り
現在の掛川祭は、掛川城周辺に鎮座する七社(龍尾神社、神明宮、利神社、池辺神社、白山神社、津島神社、貴船神社)の神社による合同の祭りです。
掛川祭は今から278年前、江戸時代中期の延享3年(1746年)には、すでに行われていたことが分かっており、寛延3年(1750年)から宝暦年間(1751年~1764年)には龍尾、神明、利の3神社が合同による祭りを行なっていたとの記述も古文書に残っています。
明治時代は3神社別々の祭りとなりましたが、大正9年(1920年)に、江戸時代以来の合同祭礼が復活しました。
御祭神が異なる複数の神社が、合同で祭典をおこなうのは全国的にも珍しいです。
👀02. 異なる文化の『出会い』から生まれる独特の祭り
掛川祭では町それぞれの特徴ある屋台が練り歩きます。
この屋台に施される趣向を凝らした装飾は、主に中京圏から影響を受けているとのこと。一方、屋台で奏でられるお囃子(おはやし)は、関東を中心に東日本各地に拡がった天下祭がもとになっているそうです。
また戦前の掛川祭は『衣裳祭り』と呼ばれていたそうで、今でも子どもたちが美しく華やかな衣装を身にまとって祭りに参加しています。江戸の花柳(かりゅう)文化の流れは、衣装だけでなくお囃子や長唄などに合わせて演じられる手踊りにも見られます。
さらに掛川祭にはさまざまな獅子舞があり、『獅子の祭り』とも言われています。
『かんからまち』と『紺屋町の木獅子』は、生い立ちの異なる獅子舞で、『仁藤町の大獅子』とそれを真似た中獅子と小獅子は、他の市町にはない特徴ある獅子舞として今も引き継がれています。
屋台や舞、衣裳、音楽などの中から興味のあるものを選び、そのルーツやどのように伝わってきたかを調べたうえで祭りを見てみるのもおもしろいと思います。
👀03. 町同士の『出会い』から生まれるしきたり
掛川祭では、美しく飾られた各町の屋台が街内を練り歩きます。
それらの屋台同士がすれ違うときには、先導する人が掛け声を交わし、お囃子が止まって屋台の位置を調整します。その後、お囃子のリズムが変わり、再び掛け声を交わして屋台は進みます。
この一連のやり取りは掛川祭特有のしきたりで、『外交』、『手木合わせ』、『徹花(てっか)』と呼ばれるもの。かつて道幅が狭かったころの名残りで、無事にすれ違うことができたという合図です。
現在の掛川祭でも、交差点周辺などで屋台同士がすれ違うときにはこのしきたりが行われ、時に和やかな、時に緊迫した独特な雰囲気を作り出しています。
このように数々の文化が出会い融合して、さまざまな世代のまちの人が引き継ぎ作り上げてきた掛川祭は、この地域で暮らす喜びを感じられる貴重なイベントであり、重要な観光資源です。
ぜひ祭りを通して、伝統文化を地域で残していく意味を考えてみましょう。
◼️ 抜け道&寄り道100景~掛川祭
東海道五十三次の宿場「掛川宿」が、掛川城の城門内に入り家屋敷と宿場町が合体したことが、複数神社の合同祭礼の背景にある
掛川祭に繰り出す屋台は、国内でも希少な二輪型
仁藤町の大獅子は、獅子の歯を取る舞で歯を獲得できると魔除けになるが、歯が抜けた大獅子を見ると呪われるらしい
お祭り広場(掛川城下通り)